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第1回「新自由主義的な価値観と「○○では〜」「〇〇人は〜」」 by 古屋憲章(帝京大学)
私は現在、某日本語教員養成講座で講師を務めている。先日、担当する授業で「第4章 「◯◯では…」「◯◯人は…」―文化の教え方を考える」を扱った。 私は、以前から「○○では〜」「〇〇人は〜」という言い方に対し、次のような問題意識を抱いていた。 「○○では〜」「〇〇人は〜」という言い方は、その中に含まれる一人ひとりの人生や生活を見えなくする。「〇〇では〜」「〇〇人は〜」と括ってしまった時点で、もはやそれは人ではなくモノになる。実際に眼の前に現れるのは、〇〇人ではなく、一人ひとり異なる顔を持った具体的な誰かである。にもかかわらず、我々はその当たり前のことを忘れて、人をモノ化することで他者に対する不安から逃れようとする。このような人をモノ化する表現は、すべての人がそれぞれ個性を持った別々の人格であるという意識を希薄にさせる。そうした意識が、先入観や偏見、差別や排除を生み、引いては暴力や殺人につながる。ゆえに、「○○では〜」「〇〇人は〜」という言い方は、できる限りすべきではないし、自身が「○○では〜」「〇〇人は〜」という言い方を用いることに意識的であるべ
casedekangaeru
12月12日
読了時間: 4分
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